2016年08月21日

アメリカこぼれ話 43 マーク・トェインの本名と生い立ち

アメリカこぼれ話 43
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「マーク・トェインの本名と生い立ち」

 「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」
の著者がマーク・トェインであることは誰でも知っている。
しかし、その本名や生い立ちについては意外に知られていない。

“マーク・トェイン”とは“水深二尋!”と船員が安全水域を
知らせる時にかける掛け声である。ミシッシピー川の水先案
内人(パイロット)の経験がある作家が、使用したペンネーム
である。

その作家の本名はサミュエル・クレメンズと言う。
ヴァージニア州から移住してきた開拓者の息子としてミズーリー州
で生まれ、4歳から同州のハンニバルというミシッシピー川沿いの
小さな港町で育った。この町での少年時代の生活が、後のトム・ソーヤ
やハックルベリーの活躍に活かされている。

父を亡くしたサム(サミュエル)は12歳から印刷工見習いとして働き
始めた。10歳年上の兄オライオン・クレメンズが経営していた印刷所
が発行する週間新聞を手伝いながら時々記事を書いて文章修行をした。

18歳で独立したサムはセントルイスから東部のニューヨーク、フィラデ
ルフィア、ワシントンなどで渡り印刷職人として働きつつ、見物をして
故郷に戻った。

町の近くを流れるミシッシピー川は、アメリカ大陸の中央部を南北に貫く
大河である。当時は交通の大動脈として蒸気船の運航が最盛期であった。

サムも、当時の人々の憧れの職業であった水先案内人になることを目指し、
免許を取得した。華やかな蒸気船での生活を送り、船上で賭博師、ペテン師、
こそ泥、南部紳士など、後の小説の登場人物の素材となった様々な人物と出
会った。しかし2年後に、南北戦争が勃発し蒸気船の運航が難しくなり、
失業してしまった。 

奴隷州であったミズーリーで育ったせいか、軽い気持ちで南軍の義勇軍に
参加したが2週間で脱退する。ちょうどその時に、ネヴァダ準州の政務長官
(セクレタリー)に任命され赴任する兄オライオンに同行して未開の西部
に向かった。

ほんの短い期間に見物をして帰郷するつもりであったが、当時のネヴァダは
金銀の鉱脈が発見されてゴールドラッシュが起こっており、一攫千金を夢見
たサムは探鉱に熱中する。しかし、ことごとく失敗して文無しとなり、土地
の新聞「テリトリアル・エンタプライズ」の記者として雇われた。

この時使用したのが“マーク・トェイン”というペンネームであったのだ。
ユーモアたっぷりのほら話(トールテール)を表現豊かな記事に仕立てて評判
を呼び、サンフランシスコに出てユーモア・ジャーナリストとして活躍した。

その後1867年に、経済成長を遂げ、金銭万能主義がはびこるニューヨークに
進出して遊軍特派員として生活した。新聞社を説得して“ヨーロッパ見聞録”
を寄稿して好評を得てマーク・トェインの文名を全国に広めた。

ジャーナリスティックな読み物が中心だったが、1873年に友人の
チャールズ・ウォーナーと共著で小説らしい小説「金ぴかの時代」
(ギルテッド・エイジ)という、時代の風潮を揶揄した本を書いて
小説家としての道を歩むことになるが、投機に対する夢を抱き続け
て失敗を重ねもした。



posted by JN01 at 15:49| 連載:アメリカこぼれ話

2016年04月25日

4/25 アメリカこぼれ話 42 少年院とルイ・アームストロング

アメリカこぼれ話 42
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「少年院とルイ・アームストロング」

 “サッチモ”ルイ・アームストロングといえば言わずと
知れたジャズ界の大御所である。彼がコルネット(トラ
ンペットの一種)の演奏を習ったのは少年院であった。

 彼はトランペット奏者として並外れたテクニックと、
即興によるメロディーづくりでジャズ界に影響を与えた。

それまでの楽器同士が競い合う集団即興演奏に代わって、
ソロ楽器での即興演奏を重んじるスタイルを導入。
ヴォーカルも担当してこれぞジャズの唄い方というジャ
ズ唱法の基礎を作り上げ、初めてスキャットという唄い
かたを取り入れてジャズの世界に貢献した。

 ルイは1901年(1900年という説もある)ニューオ
ルリンズで生まれた。母は歓楽街ストーリーヴィルの
元売春婦で、すぐに姿を消した父親は工場労働者だっ
たと言われている。

 子供の頃は、教会の聖歌隊や子守として住み込んだ
白人家庭で音楽に親しんだ。特に彼の音楽的才能に影
響を与えたのは、近所の酒場で演奏していた当時の名
コルネット奏者バディー・ボーデンであった。ある
時、お祭りで浮かれてピストルを発射し警官とトラブ
ルになり、少年院に入れられることになった。しかし
これがむしろ彼の将来には幸運になった。

 ブラスバンドの一員として様々な楽器の演奏を習
い、とりわけバンドの教師が貸してくれたコルネット
との出会いが彼の人生の大きな転機となった。15歳で
少年院を出所したルイは、炭鉱などで働きながら夜は
ミュージシャンとして活動を初め、次第に注目を集め
る存在になる。やがてコルネット奏者のキング・オリ
バーの目に留まりテクニックを教わることになった。
この頃欧州で始まった第一次世界大戦がルイの運命を
変えることになる。

 ニューオルリンズが軍港として使用され、ジャズの
拠点であった娼館街が閉鎖され演奏機会が激減してし
まった。しばらくルイは、ミシシッピー川を上下する
外輪船上で演奏するバンドで働いていたが、やがて川
を遡り、シカゴに落ち着いた。そして再びキング・オ
リバーと巡り合い、彼の楽団で働き、頭角を現した。
時代は次第にジャズの黄金時代“ジャズ・エイジ”に向
かい、ルイの名声も高まり、ニューヨークに進出し
て、「ハーレム・ルネッサンス」の中心の一人として
活躍することとなった。


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2016年02月25日

2/25 アメリカこぼれ話 41 大佐ではなかったカーネル・サンダース

アメリカこぼれ話 41
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「大佐ではなかったカーネル・サンダース」

 カーネル・サンダースの像はファーストフードチェーン“ケンタッキー・フライド・
チキン”の店頭ディスプレイである。 1985年に阪神タイガースが日本一になっ
た時、喜んだファンが、活躍したバース選手に似たこの人形を胴上げして道頓
堀川に投げ込み、2009年3月に見つけ出されるまで行方不明であった。この像
は1970年に同社の日本法人設立時に、まだ消費者になじみの薄かったフライド
チキンのPRの為に店頭に並べたのが始まりであるという。

phoho883.GIF   “ケンタッキー・フライド・チキン”の創始者ハー
 ランド・D・サンダースはケンタッキー州の生まれ
 ではなく1890年にイリノイ州で生まれた。早くに父
 親を亡くし兄弟の世話をするために働き始め、鉄
 道の車掌、保険のセールスマン、 タイヤ売りなど
 の職業を転々とした。16歳の時には軍隊に入隊し
 たが在籍も短く、勿論カーネル(大佐)には昇格し
 ていない。

   1930年、ケンタッキー州コービンでガソリンスタ
 ンドを開業し、その一角でドライバーやトラック運転
手のために食事を提供する小さなカフェを開き、メニューの中に、近所の人から
教わった圧力釜で調理したチキンを入れた。 南部ではフライドチキンは各家庭
で作られる、いわばお袋の味であり、サンダースはその後、様々なハーブとスパ
イスを混ぜた独特のレシピのフライドチキンを完成した。

 大不況という時代で、新しいハイウエーの建設で車の流れが変わったこともあ
り、ガソリンスタンドの経営はうまく行かず、フライドチキンの調理方法だけが彼
に残された唯一の財産となった。このレシピを教える代わりに、売上高から一定
の歩合を貰うフランチャイズビジネスをはじめた。1953年、ユタ州に最初のフラ
ンチャイズ店をオープンし、家庭持ち帰り方式を採り入れてファーストフード業界
に革命をもたらした。

 自身は軍の大佐でもなく南部出身者でもなかったサンダースは、フライドチキ
ンを売るために典型的な南部の紳士を装い、口髭、顎鬚を生やし、白髪を伸ば
した上で、白いスーツとストリングタイに身を固め、好々爺の恰好を演じ続けた。
「カーネル」の呼称は、 1935年、ケンタッキー州知事から与えられたもので、当
時のケンタッキー州知事が地域活動に特に貢献の高かった人物や政治家に与
えた名誉称号のようなものであった。 サンダースは受賞したことを喜び、以後
カーネル・サンダースと称するようになったのである。


posted by JN01 at 21:47| 連載:アメリカこぼれ話