2016年04月25日

4/25 アメリカこぼれ話 42 少年院とルイ・アームストロング

アメリカこぼれ話 42
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「少年院とルイ・アームストロング」

 “サッチモ”ルイ・アームストロングといえば言わずと
知れたジャズ界の大御所である。彼がコルネット(トラ
ンペットの一種)の演奏を習ったのは少年院であった。

 彼はトランペット奏者として並外れたテクニックと、
即興によるメロディーづくりでジャズ界に影響を与えた。

それまでの楽器同士が競い合う集団即興演奏に代わって、
ソロ楽器での即興演奏を重んじるスタイルを導入。
ヴォーカルも担当してこれぞジャズの唄い方というジャ
ズ唱法の基礎を作り上げ、初めてスキャットという唄い
かたを取り入れてジャズの世界に貢献した。

 ルイは1901年(1900年という説もある)ニューオ
ルリンズで生まれた。母は歓楽街ストーリーヴィルの
元売春婦で、すぐに姿を消した父親は工場労働者だっ
たと言われている。

 子供の頃は、教会の聖歌隊や子守として住み込んだ
白人家庭で音楽に親しんだ。特に彼の音楽的才能に影
響を与えたのは、近所の酒場で演奏していた当時の名
コルネット奏者バディー・ボーデンであった。ある
時、お祭りで浮かれてピストルを発射し警官とトラブ
ルになり、少年院に入れられることになった。しかし
これがむしろ彼の将来には幸運になった。

 ブラスバンドの一員として様々な楽器の演奏を習
い、とりわけバンドの教師が貸してくれたコルネット
との出会いが彼の人生の大きな転機となった。15歳で
少年院を出所したルイは、炭鉱などで働きながら夜は
ミュージシャンとして活動を初め、次第に注目を集め
る存在になる。やがてコルネット奏者のキング・オリ
バーの目に留まりテクニックを教わることになった。
この頃欧州で始まった第一次世界大戦がルイの運命を
変えることになる。

 ニューオルリンズが軍港として使用され、ジャズの
拠点であった娼館街が閉鎖され演奏機会が激減してし
まった。しばらくルイは、ミシシッピー川を上下する
外輪船上で演奏するバンドで働いていたが、やがて川
を遡り、シカゴに落ち着いた。そして再びキング・オ
リバーと巡り合い、彼の楽団で働き、頭角を現した。
時代は次第にジャズの黄金時代“ジャズ・エイジ”に向
かい、ルイの名声も高まり、ニューヨークに進出し
て、「ハーレム・ルネッサンス」の中心の一人として
活躍することとなった。


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2016年02月25日

2/25 アメリカこぼれ話 41 大佐ではなかったカーネル・サンダース

アメリカこぼれ話 41
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「大佐ではなかったカーネル・サンダース」

 カーネル・サンダースの像はファーストフードチェーン“ケンタッキー・フライド・
チキン”の店頭ディスプレイである。 1985年に阪神タイガースが日本一になっ
た時、喜んだファンが、活躍したバース選手に似たこの人形を胴上げして道頓
堀川に投げ込み、2009年3月に見つけ出されるまで行方不明であった。この像
は1970年に同社の日本法人設立時に、まだ消費者になじみの薄かったフライド
チキンのPRの為に店頭に並べたのが始まりであるという。

phoho883.GIF   “ケンタッキー・フライド・チキン”の創始者ハー
 ランド・D・サンダースはケンタッキー州の生まれ
 ではなく1890年にイリノイ州で生まれた。早くに父
 親を亡くし兄弟の世話をするために働き始め、鉄
 道の車掌、保険のセールスマン、 タイヤ売りなど
 の職業を転々とした。16歳の時には軍隊に入隊し
 たが在籍も短く、勿論カーネル(大佐)には昇格し
 ていない。

   1930年、ケンタッキー州コービンでガソリンスタ
 ンドを開業し、その一角でドライバーやトラック運転
手のために食事を提供する小さなカフェを開き、メニューの中に、近所の人から
教わった圧力釜で調理したチキンを入れた。 南部ではフライドチキンは各家庭
で作られる、いわばお袋の味であり、サンダースはその後、様々なハーブとスパ
イスを混ぜた独特のレシピのフライドチキンを完成した。

 大不況という時代で、新しいハイウエーの建設で車の流れが変わったこともあ
り、ガソリンスタンドの経営はうまく行かず、フライドチキンの調理方法だけが彼
に残された唯一の財産となった。このレシピを教える代わりに、売上高から一定
の歩合を貰うフランチャイズビジネスをはじめた。1953年、ユタ州に最初のフラ
ンチャイズ店をオープンし、家庭持ち帰り方式を採り入れてファーストフード業界
に革命をもたらした。

 自身は軍の大佐でもなく南部出身者でもなかったサンダースは、フライドチキ
ンを売るために典型的な南部の紳士を装い、口髭、顎鬚を生やし、白髪を伸ば
した上で、白いスーツとストリングタイに身を固め、好々爺の恰好を演じ続けた。
「カーネル」の呼称は、 1935年、ケンタッキー州知事から与えられたもので、当
時のケンタッキー州知事が地域活動に特に貢献の高かった人物や政治家に与
えた名誉称号のようなものであった。 サンダースは受賞したことを喜び、以後
カーネル・サンダースと称するようになったのである。


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2015年12月27日

12/27 アメリカこぼれ話40 真ん中にない公園=セントラル・パーク

アメリカこぼれ話 40
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「真ん中にない公園=セントラル・パーク」

19世紀後半は、アメリカで産業化、都市化が急速に進行し、
多くの移民が職を求めて都市に集中し、スラムを形成して
いった。ニューヨークはその代表的な都市であり、マンハッ
タン島の南から北に向かって急激に膨張していった。
人口が急増して都市化が進む中、有識者の間でロンドンの
ハイドパークやパリのブローニュの森のような、人々が安
らげる都市公園を作る呼びかけが行われた。

この当時、住民の大部分は現在のロアーマンハッタンに
住んでおり、公園と呼べるような場所はほとんどなかった。
1853年、州議会がマンハッタンの中心に公園を建設する権限
を市政府に与え、現在の場所を公園予定地と定め、公園の設
計案を公募。建設コンペを実施した結果、フレデリック・
ロー・オムステッドとカルヴァート・ヴォーの「芝原計画」が
採用される。岩と湿地帯の大改造が1858年に開始され、1876年
に完成した。建設当時、この辺りは住宅地から遠く、アイルラ
ンド系や黒人などの不法居住者が小屋を建て住み着いていた。
彼らは豚などの家畜を飼い、密造酒を作っていた。これらの
約千数百名は立ち退きに激しくい抵抗したが、それも敵わず
退去させられた。公園の整備は多くの移民の雇用対策の側面
も持っていたが、この当時は「金ぴかの時代」といわれ、
政治と経済界が癒着し汚職と腐敗が横行しており、この公園
計画も政治的に利用された。

理想主義的なオムステッドは、都市の公園は重要な教育現場
の一つ、と考えており、公園の秩序を守るために細かい規則
を作り、景観維持に努めようとした。この広大な土地の利便
性や将来性を見込んで、経済的、実利的な思惑の商業主義が
押し寄せ、サーカス、遊園地、売店などで儲けようとする動
きが絶えなかった。オムステッドは公園本来の目的に添わな
いとして拒絶したが、腐敗した政治家の圧力で何度か解雇さ
れた。

完成した“セントラル・パーク”は都心から遠く離れたアッ
プタウンに位置しており、交通が不便で費用も高く、その緑
の恩恵を一番必要としていた住民には手の届かない場所だった。
一方、中産階級や富裕層にとっては物珍しい場所となり、馬車
で見物に訪れ、流行していた自転車を乗り回し、冬にはスケー
トを楽しんだという。人里から遠い場所に出来た公園の名前が
“セントラル・パーク”であったため、一部では皮肉や揶揄の
対象になった。

posted by JN01 at 01:06| 連載:アメリカこぼれ話