2017年01月08日

アメリカこぼれ話 46 ローマの休日と赤狩り

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「ローマの休日と赤狩り」

“ローマの休日”はオードリー・ヘップバーンを一躍世界的な女優にした
名作で1953年のアカデミー賞の主演女優賞を獲得した。

このとき、この映画で脚本賞を獲得したのはイーアン・マクレラン・ハンター
という無名の、そしてその後もまったく仕事をしていない謎の人物であった。

後に、この人物は、大物脚本家ドルトン・トランボンの替え玉であったこと
が判明した。

第二次世界大戦後の冷戦時代に、共産主義者やそのシンパを弾圧した
いわゆる“赤狩り”の嵐が吹き荒れ、リベラルな考えを持ち、大衆への
影響力が大きい映画人がその攻撃目標となった。

1947年に非米活動委員会の聴聞会に、後に“ハリウッド・テン”と呼ばれた
映画人が召還されたが、質問に答えることを拒否した為、議会侮辱罪で実刑判決
を受けた。トランボンはその犠牲者の一人であり、入獄後メキシコに亡命した。

俳優や監督は顔が知られており仕事から干されたが、幸い脚本家は顔を表に出す
必要がないので、偽名や変名で仕事をすることが出来た。トランボンは亡命先の
メキシコで、メキシコの少年と闘牛に売られてゆく牛との愛情を描いた「黒い牡牛」
という映画の脚本をロバート・リッチという変名で書き、1957年の第30回アカデミー
賞脚本賞を受賞した。

授賞式の当日、プレゼンターの女優デボラ・カーがロバート・リッチの名前を
発表したが受賞者は現れず、マスコミも取材したがその正体は不明であった。

「ローマの休日」は1953年の作品であったが、トランボンは監督である
ウイリアム・ワイラーに累が及ぶのを恐れて、長い間、自身が書いた事実
を隠していた。

非米活動委員会に協力的だった、当時の映画俳優組合の委員長であった
ロナルド・レーガンや、圧力に屈して仲間を売って転向したエリア・カザン監督
などと違って、ワイラー監督は、監督のジョン・ヒューストンや女優
キャサリン・ヘップバーンと共に“ハリウッド・テン”を支援した一人で
あったからである。

その後、トランボンは叙々にハリウッドに復帰し、実名で「スパルタカス」(60年)
「栄光への脱出」(60年)「パピヨン」(73年)等の大作を手がけ、1970年には自分
の原作を自ら監督した作品「ジョニーは戦場に行った」を撮った。トランボンは
2度オスカーを受賞(「黒い牡牛」「ローマの休日」)したが、いずれも実名で発表
した作品ではなかったのである。


posted by JN01 at 17:34| 連載:アメリカこぼれ話

2016年10月28日

アメリカこぼれ話 45 タバスコは何処の製品?

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「タバスコは何処の製品?」

今の日本で、スパゲッティーやピザの店でテーブルの上にある赤い液体が
入った小瓶、「タバスコ」を知らない人はほとんどいないであろう。

赤唐辛子と酢の混じった独特の味と香りは、食べ物の味をいっそう引き立て、
愛好する人も多い。赤い唐辛子の入ったあざやかな赤色の小瓶の上に、白い
菱形のラベルに緑の文字で「タバスコ」と書かれている。

タバスコとはメキシコ南部の川の名前である。

一見メキシコ製品のように見えるが、よくラベルを読むと「マッキルヘニー社、
メイド・イン・USA」と書かれている。実はタバスコは、アメリカ南部ルイジアナ
州産なのだ。

創始者のエドモンド・マッキルヘニーは、ニューオルリンズの銀行家でスコッ
チアイリッシュ系であった。南北戦争の最中1862年に、北軍がニューオルリン
ズ近郊まで攻め込んで来た。

マッキルヘニーは、妻の実家アヴェリー家のあるアヴェリーアイランドに避難
した。アイランドと言っても島ではない。ニューオルリンズの西、ケイジャン郡
にある岩塩が盛り上がって島のようになった土地である。

当時、塩は肉を貯蔵するために必要な貴重品であった。純粋な岩塩がドーム
状に豊富にあるアヴェリーアイランドは、北軍に侵略され、一家は更にテキサス
に逃げた。

南北戦争終了後、荒廃した故郷に帰ったマッキルヘニーは、庭に実っていた
唐辛子に塩をふりかけ、酢と麦芽汁を加え樽に漬け熟成させた。出来上がっ
た汁をオーデコロンの空き瓶に詰め、近所の人たちや友人に配ったところ
好評であった。

それで1868年に商標登録をし、商品化したのである。成功のポイントは豊富
な塩である。塩の運搬のために近くまで鉄道が敷設されていたので、これに
便乗して商品の売り上げを伸ばすことが出来た。

赤唐辛子は当初、近隣の農園で手積みしたものを使用していた。世界中に
需要が広がると周辺で収穫されたものだけでは間に合わなくなり、メキシコ、
ベネズエラ、コロンビア、ホンデュラスなどから輸入されるようになった。

現在でも昔ながらの製法を守っている。3年間は樽に漬けられ、味や色がチェッ
クされた後、酢が加えられて混合液が作られる。そして1ヶ月後に濾過されあの
小瓶に詰められて世界中に輸出されている。

我が日本が輸出先のナンバーワンである。








posted by JN01 at 16:24| 連載:アメリカこぼれ話

2016年08月22日

アメリカこぼれ話 44 禁酒地区で造られているジャック・ダニエル

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「禁酒地区で造られているジャック・ダニエル」

ジャック・ダニエルといえばアメリカを代表するバーボン・ウィスキー
の銘柄である。 “スクエアシューター”と呼ばれる四角い壜と滑らかな
味に特色がある。しかし正確に言うとバーボン・ウィスキーではなく、
テネシー・ウィスキーである。

バーボン・ウィスキーとはケンタッキー州のバーボン郡
で造られたウィスキーを指し、トウモロコシを使用し、
内側を焦がした樽で熟成させるものである。

ジャック・ダニエルは原料や蒸留法は同じだが、サトウカエデ
の木炭で濾過させて熟成させるのが特徴である。そもそもアメリカ
におけるウィスキーの製造は、アイルランドやスコットランドから
の移民がペンシルヴァニアなど東部地区でライ麦を使用して生産し
ていた。

しかし独立戦争後の新政府が財政困難で、税収を増やすために
ウィスキーに過重な税金を課した。そのために酒造業者が謀反を
起こし、政府に鎮圧されるという事件が起った。

この事件を契機に酒造家たちは、高い酒税を逃れるために、
中央政府の目が届きにくい、当時のアメリカの西部フロンティア
であるケンタッキーやテネシーで蒸留酒を造るようになり、
ライ麦の代わりにこの地方でよく獲れるトウモロコシを使用する
ようになったのである。

ジャック・ニュートン・ダニエルは1846年にテネシーで生まれた。
6歳で家出して農家に居候し、ハウスボーイなどをしながら金を貯め、
蒸留酒製造所を買い取った。南北戦争勃発前から、若いジャックは
造ったウィスキーを馬車に積んで近隣の町まで運び、夜中に収税史の
目を避けて酒場、レストラン、食料品店などに販売した。

戦争が終結した後に、幼い頃からの夢であったテネシー州のリンチバーグ
という小さな村に蒸留酒製造所を開設した。村のケイブスプリングという
地域の、鉄分を含まない泉の湧き水がおいしいウィスキー造りに欠かせな
いと考えたからである。

しばらくの間は彼のビジネスも順調に推移したが、やがて世の中では
禁酒運動が盛んになった。1920年、正式に連邦政府がアルコール飲料
の醸造、販売を禁止した。しかしそれ以前から、南部諸州の半分以上
で禁酒法が制定されて販売が難しくなってきていた。

禁酒法が施行されていた時代には、叔父ジャックの跡を継いだ
レイ・モトロウは、馬具や金物の販売をしながら過ごした。
解禁後に醸造を再開し、現在まで昔ながらの製法を継承し、
今では南部を代表するシンボルの一つになっている。

ジャック・ダニエルの広告には今でもリンチバーグの白黒写真を
背景に使っているが、この人口1000人余りの小村は禁酒法が過去の
遺物になった現在でも“ドライカウンティー”(禁酒地域)である。



posted by JN01 at 08:00| 連載:アメリカこぼれ話