2016年10月28日

アメリカこぼれ話 45 タバスコは何処の製品?

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「タバスコは何処の製品?」

今の日本で、スパゲッティーやピザの店でテーブルの上にある赤い液体が
入った小瓶、「タバスコ」を知らない人はほとんどいないであろう。

赤唐辛子と酢の混じった独特の味と香りは、食べ物の味をいっそう引き立て、
愛好する人も多い。赤い唐辛子の入ったあざやかな赤色の小瓶の上に、白い
菱形のラベルに緑の文字で「タバスコ」と書かれている。

タバスコとはメキシコ南部の川の名前である。

一見メキシコ製品のように見えるが、よくラベルを読むと「マッキルヘニー社、
メイド・イン・USA」と書かれている。実はタバスコは、アメリカ南部ルイジアナ
州産なのだ。

創始者のエドモンド・マッキルヘニーは、ニューオルリンズの銀行家でスコッ
チアイリッシュ系であった。南北戦争の最中1862年に、北軍がニューオルリン
ズ近郊まで攻め込んで来た。

マッキルヘニーは、妻の実家アヴェリー家のあるアヴェリーアイランドに避難
した。アイランドと言っても島ではない。ニューオルリンズの西、ケイジャン郡
にある岩塩が盛り上がって島のようになった土地である。

当時、塩は肉を貯蔵するために必要な貴重品であった。純粋な岩塩がドーム
状に豊富にあるアヴェリーアイランドは、北軍に侵略され、一家は更にテキサス
に逃げた。

南北戦争終了後、荒廃した故郷に帰ったマッキルヘニーは、庭に実っていた
唐辛子に塩をふりかけ、酢と麦芽汁を加え樽に漬け熟成させた。出来上がっ
た汁をオーデコロンの空き瓶に詰め、近所の人たちや友人に配ったところ
好評であった。

それで1868年に商標登録をし、商品化したのである。成功のポイントは豊富
な塩である。塩の運搬のために近くまで鉄道が敷設されていたので、これに
便乗して商品の売り上げを伸ばすことが出来た。

赤唐辛子は当初、近隣の農園で手積みしたものを使用していた。世界中に
需要が広がると周辺で収穫されたものだけでは間に合わなくなり、メキシコ、
ベネズエラ、コロンビア、ホンデュラスなどから輸入されるようになった。

現在でも昔ながらの製法を守っている。3年間は樽に漬けられ、味や色がチェッ
クされた後、酢が加えられて混合液が作られる。そして1ヶ月後に濾過されあの
小瓶に詰められて世界中に輸出されている。

我が日本が輸出先のナンバーワンである。








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2016年08月22日

アメリカこぼれ話 44 禁酒地区で造られているジャック・ダニエル

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「禁酒地区で造られているジャック・ダニエル」

ジャック・ダニエルといえばアメリカを代表するバーボン・ウィスキー
の銘柄である。 “スクエアシューター”と呼ばれる四角い壜と滑らかな
味に特色がある。しかし正確に言うとバーボン・ウィスキーではなく、
テネシー・ウィスキーである。

バーボン・ウィスキーとはケンタッキー州のバーボン郡
で造られたウィスキーを指し、トウモロコシを使用し、
内側を焦がした樽で熟成させるものである。

ジャック・ダニエルは原料や蒸留法は同じだが、サトウカエデ
の木炭で濾過させて熟成させるのが特徴である。そもそもアメリカ
におけるウィスキーの製造は、アイルランドやスコットランドから
の移民がペンシルヴァニアなど東部地区でライ麦を使用して生産し
ていた。

しかし独立戦争後の新政府が財政困難で、税収を増やすために
ウィスキーに過重な税金を課した。そのために酒造業者が謀反を
起こし、政府に鎮圧されるという事件が起った。

この事件を契機に酒造家たちは、高い酒税を逃れるために、
中央政府の目が届きにくい、当時のアメリカの西部フロンティア
であるケンタッキーやテネシーで蒸留酒を造るようになり、
ライ麦の代わりにこの地方でよく獲れるトウモロコシを使用する
ようになったのである。

ジャック・ニュートン・ダニエルは1846年にテネシーで生まれた。
6歳で家出して農家に居候し、ハウスボーイなどをしながら金を貯め、
蒸留酒製造所を買い取った。南北戦争勃発前から、若いジャックは
造ったウィスキーを馬車に積んで近隣の町まで運び、夜中に収税史の
目を避けて酒場、レストラン、食料品店などに販売した。

戦争が終結した後に、幼い頃からの夢であったテネシー州のリンチバーグ
という小さな村に蒸留酒製造所を開設した。村のケイブスプリングという
地域の、鉄分を含まない泉の湧き水がおいしいウィスキー造りに欠かせな
いと考えたからである。

しばらくの間は彼のビジネスも順調に推移したが、やがて世の中では
禁酒運動が盛んになった。1920年、正式に連邦政府がアルコール飲料
の醸造、販売を禁止した。しかしそれ以前から、南部諸州の半分以上
で禁酒法が制定されて販売が難しくなってきていた。

禁酒法が施行されていた時代には、叔父ジャックの跡を継いだ
レイ・モトロウは、馬具や金物の販売をしながら過ごした。
解禁後に醸造を再開し、現在まで昔ながらの製法を継承し、
今では南部を代表するシンボルの一つになっている。

ジャック・ダニエルの広告には今でもリンチバーグの白黒写真を
背景に使っているが、この人口1000人余りの小村は禁酒法が過去の
遺物になった現在でも“ドライカウンティー”(禁酒地域)である。



posted by JN01 at 08:00| 連載:アメリカこぼれ話

2016年08月21日

アメリカこぼれ話 43 マーク・トェインの本名と生い立ち

アメリカこぼれ話 43
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「マーク・トェインの本名と生い立ち」

 「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」
の著者がマーク・トェインであることは誰でも知っている。
しかし、その本名や生い立ちについては意外に知られていない。

“マーク・トェイン”とは“水深二尋!”と船員が安全水域を
知らせる時にかける掛け声である。ミシッシピー川の水先案
内人(パイロット)の経験がある作家が、使用したペンネーム
である。

その作家の本名はサミュエル・クレメンズと言う。
ヴァージニア州から移住してきた開拓者の息子としてミズーリー州
で生まれ、4歳から同州のハンニバルというミシッシピー川沿いの
小さな港町で育った。この町での少年時代の生活が、後のトム・ソーヤ
やハックルベリーの活躍に活かされている。

父を亡くしたサム(サミュエル)は12歳から印刷工見習いとして働き
始めた。10歳年上の兄オライオン・クレメンズが経営していた印刷所
が発行する週間新聞を手伝いながら時々記事を書いて文章修行をした。

18歳で独立したサムはセントルイスから東部のニューヨーク、フィラデ
ルフィア、ワシントンなどで渡り印刷職人として働きつつ、見物をして
故郷に戻った。

町の近くを流れるミシッシピー川は、アメリカ大陸の中央部を南北に貫く
大河である。当時は交通の大動脈として蒸気船の運航が最盛期であった。

サムも、当時の人々の憧れの職業であった水先案内人になることを目指し、
免許を取得した。華やかな蒸気船での生活を送り、船上で賭博師、ペテン師、
こそ泥、南部紳士など、後の小説の登場人物の素材となった様々な人物と出
会った。しかし2年後に、南北戦争が勃発し蒸気船の運航が難しくなり、
失業してしまった。 

奴隷州であったミズーリーで育ったせいか、軽い気持ちで南軍の義勇軍に
参加したが2週間で脱退する。ちょうどその時に、ネヴァダ準州の政務長官
(セクレタリー)に任命され赴任する兄オライオンに同行して未開の西部
に向かった。

ほんの短い期間に見物をして帰郷するつもりであったが、当時のネヴァダは
金銀の鉱脈が発見されてゴールドラッシュが起こっており、一攫千金を夢見
たサムは探鉱に熱中する。しかし、ことごとく失敗して文無しとなり、土地
の新聞「テリトリアル・エンタプライズ」の記者として雇われた。

この時使用したのが“マーク・トェイン”というペンネームであったのだ。
ユーモアたっぷりのほら話(トールテール)を表現豊かな記事に仕立てて評判
を呼び、サンフランシスコに出てユーモア・ジャーナリストとして活躍した。

その後1867年に、経済成長を遂げ、金銭万能主義がはびこるニューヨークに
進出して遊軍特派員として生活した。新聞社を説得して“ヨーロッパ見聞録”
を寄稿して好評を得てマーク・トェインの文名を全国に広めた。

ジャーナリスティックな読み物が中心だったが、1873年に友人の
チャールズ・ウォーナーと共著で小説らしい小説「金ぴかの時代」
(ギルテッド・エイジ)という、時代の風潮を揶揄した本を書いて
小説家としての道を歩むことになるが、投機に対する夢を抱き続け
て失敗を重ねもした。



posted by JN01 at 15:49| 連載:アメリカこぼれ話