2017年08月08日

アメリカこぼれ話48 在任一ヶ月の大統領

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「在任一ヶ月の大統領」

 アメリカ人は何事にもレイティング、すなわち順位付けをするのが好きで、
歴代大統領の“偉大さランキング”を定期的に発表している。

数百人の学者へのアンケートを纏めたものである。
その中で戦後発表のものは時期を問わず第1位はリンカーン、
2位がワシントン、3位F・D・ルーズベルトであり、
最下位はハーディングとグラントになっている。

これらのアンケートでいつも評価の対象外になる大統領がいる。
9代目のウイリアム・ヘンリー・ハリソンと
20代のジェームス・A・ガーフィールドである。

在任期間が短くて評価出来ないからである。

W・ハリソンはヴァージニアの大農園主の息子として生まれた。
父は初代のワシントン大統領の親友で独立宣言にも名を連ねる
名家の出である。

陸軍に入ったハリソンを一躍有名にしたのは、
1794年に起こった「落木の戦い」であった。

合衆国政府軍の若き将校としてマイアミ連合
(オハイオ川流域のインディアン諸部族の連合)
を打ち破るという際立った成果をあげてためである。

この時、インディアン連合で目立つ活躍をしたのは、
後にショーニー族の若き首長になったテクムセである。

敗戦後、10数年をかけ、カナダからフロリダまでのインディアンの
大連合を呼びかけて組織化し、その最後の説得のために南部に出向いた。

その間にハリソン率いる合衆国軍が、テクムセの留守部隊を襲撃し、壊滅させた。

1812年に始まった米英戦争では、テクムセは英国正規軍の准将に任じられ活躍した。
ここでも彼の前に立ちはだかったのは米軍少尉になっていたハリソンであった。
最後を覚悟したテクムセは、英国将校の軍服を捨て、
インディアンの正装に身を固めて、宿敵ハリソンに絶望的な戦いを挑み、
銃弾に斃れたのである。

戦後ハリソンはオハイオ州で連邦下院議員、上院議員、そして南米コロンビアの
駐在公使などを歴任する。

1840年の大統領選にはホイッグ党から立候補した。
対メキシコ戦争を回避するため、テキサスの併合に反対して大衆に評判の悪かった
対抗馬のヴァン・ビューレンを破って当選した。

彼が68歳のときで、後にロナルド・レーガンが69歳で大統領になるまで、
最高齢の大統領であった。

当選で張り切った彼は、厳冬の3月の大統領就任式にコートも手袋もせずに、
歴代大統領の就任演説では最も長い1時間45分の演説を行った。

それがもとで風邪をこじらせて肺炎を併発して就任一ヵ月後に死亡した。

その結果、アメリカ史上初めての副大統領から第10代の大統領へ昇格したのが
ジョン・タイラーである。

尚、20代のガーフィールドは就任4ヶ月足らずで、ワシントン駅で暗殺されてしまった。
犯人は大統領選挙応援の見返りに官職にありつこうとしたがうまく職にありつけ
なかった失意の男であった。

posted by JN01 at 19:18| 連載:アメリカこぼれ話

2017年03月14日

アメリカこぼれ話 47 大統領を2度務めた男

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「大統領を2度務めた男」

バラク・オバマ大統領は建国以来、44代目のアメリカ大統領である。
歴代の大統領でただ一人2度大統領を務めた人物がいるので、43人目の大統領となる。

その唯一大統領にカムバックを果たした人物は、第22代の大統領を一期務めた後、
二期目の選挙で破れ、その次の大統領選に再挑戦して当選。第24代大統領に返り咲いた
グローバー・クリーブランドである。クリーブランドは貧しい牧師の第五子に生まれた。

大学には進学出来なかったが、苦学の末、弁護士の資格をとり、ニューヨーク州北部
で活動していた。1881年に民主党から推薦され、バッファロー市の市長に当選した。
その後ニューヨーク州知事にも選ばれ、行政改革や反ボス政治の姿勢が評価されて、
1884年の大統領選挙に民主党の大統領候補として立候補し、当選した。

リンカーン大統領以来24年間続いた共和党政権が倒れ、久しぶりの民主党政権の誕生
である。在任中の最大の争点は関税問題であった。

クリーブランドは共和党の高関税政策は消費者に不利をもたらすとし、関税の軽減を
主張した。再選を目指して1888年の大統領選に望んだ。

一方、共和党のB・ハリソン候補は、関税引き下げはイギリス製品を有利にする
として反対した。現職有利と見られていたが投票日直前に在米イギリス公使が不用意に
“イギリス政府はクリーブランドの再選を希望する”旨の文書を出したため、
大衆の愛国心を刺激し、僅差で敗北した。しかしハリソンは、第23代大統領として
公約通り一般関税を引き上げたため、生活必需品の価格が高騰し国民の不評を買った為、
1892年の大統領選ではクリーブランドが大勝した。


この時代は、マーク・トウェインが「金ぴかの時代」と名づけ、政財界の腐敗が
激しかった。既存の共和・民主の両党に対する不満が大きく、人民党という第三政党が
結成された。この年の大統領選では西部の農民を中心に一般投票で百万票を集めて
侮れない政党に成長しつつあった。クリーブランドが2度目に大統領に就任後は、
生憎、恐慌に見舞われ、財政破綻の危機を招いた。

1894年に起こったプルマン寝台車会社の労働者のストライキで、会社側の要請を受け
連邦軍を派遣してスト鎮圧を企てた。このような反労働者性を露骨に示しことなどが
影響し、96年の大統領選では民主党の指名は得られなかった。

なお、クリーブランドは歴代大統領中、最も晩婚で(49歳)、一期目の途中で大統領
としてはただ一人ホワイト・ハウスで結婚式をあげた。





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2017年01月08日

アメリカこぼれ話 46 ローマの休日と赤狩り

JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「ローマの休日と赤狩り」

“ローマの休日”はオードリー・ヘップバーンを一躍世界的な女優にした
名作で1953年のアカデミー賞の主演女優賞を獲得した。

このとき、この映画で脚本賞を獲得したのはイーアン・マクレラン・ハンター
という無名の、そしてその後もまったく仕事をしていない謎の人物であった。

後に、この人物は、大物脚本家ドルトン・トランボンの替え玉であったこと
が判明した。

第二次世界大戦後の冷戦時代に、共産主義者やそのシンパを弾圧した
いわゆる“赤狩り”の嵐が吹き荒れ、リベラルな考えを持ち、大衆への
影響力が大きい映画人がその攻撃目標となった。

1947年に非米活動委員会の聴聞会に、後に“ハリウッド・テン”と呼ばれた
映画人が召還されたが、質問に答えることを拒否した為、議会侮辱罪で実刑判決
を受けた。トランボンはその犠牲者の一人であり、入獄後メキシコに亡命した。

俳優や監督は顔が知られており仕事から干されたが、幸い脚本家は顔を表に出す
必要がないので、偽名や変名で仕事をすることが出来た。トランボンは亡命先の
メキシコで、メキシコの少年と闘牛に売られてゆく牛との愛情を描いた「黒い牡牛」
という映画の脚本をロバート・リッチという変名で書き、1957年の第30回アカデミー
賞脚本賞を受賞した。

授賞式の当日、プレゼンターの女優デボラ・カーがロバート・リッチの名前を
発表したが受賞者は現れず、マスコミも取材したがその正体は不明であった。

「ローマの休日」は1953年の作品であったが、トランボンは監督である
ウイリアム・ワイラーに累が及ぶのを恐れて、長い間、自身が書いた事実
を隠していた。

非米活動委員会に協力的だった、当時の映画俳優組合の委員長であった
ロナルド・レーガンや、圧力に屈して仲間を売って転向したエリア・カザン監督
などと違って、ワイラー監督は、監督のジョン・ヒューストンや女優
キャサリン・ヘップバーンと共に“ハリウッド・テン”を支援した一人で
あったからである。

その後、トランボンは叙々にハリウッドに復帰し、実名で「スパルタカス」(60年)
「栄光への脱出」(60年)「パピヨン」(73年)等の大作を手がけ、1970年には自分
の原作を自ら監督した作品「ジョニーは戦場に行った」を撮った。トランボンは
2度オスカーを受賞(「黒い牡牛」「ローマの休日」)したが、いずれも実名で発表
した作品ではなかったのである。


posted by JN01 at 17:34| 連載:アメリカこぼれ話