JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)
「ローマの休日と赤狩り」
“ローマの休日”はオードリー・ヘップバーンを一躍世界的な女優にした
名作で1953年のアカデミー賞の主演女優賞を獲得した。
このとき、この映画で脚本賞を獲得したのはイーアン・マクレラン・ハンター
という無名の、そしてその後もまったく仕事をしていない謎の人物であった。
後に、この人物は、大物脚本家ドルトン・トランボンの替え玉であったこと
が判明した。
第二次世界大戦後の冷戦時代に、共産主義者やそのシンパを弾圧した
いわゆる“赤狩り”の嵐が吹き荒れ、リベラルな考えを持ち、大衆への
影響力が大きい映画人がその攻撃目標となった。
1947年に非米活動委員会の聴聞会に、後に“ハリウッド・テン”と呼ばれた
映画人が召還されたが、質問に答えることを拒否した為、議会侮辱罪で実刑判決
を受けた。トランボンはその犠牲者の一人であり、入獄後メキシコに亡命した。
俳優や監督は顔が知られており仕事から干されたが、幸い脚本家は顔を表に出す
必要がないので、偽名や変名で仕事をすることが出来た。トランボンは亡命先の
メキシコで、メキシコの少年と闘牛に売られてゆく牛との愛情を描いた「黒い牡牛」
という映画の脚本をロバート・リッチという変名で書き、1957年の第30回アカデミー
賞脚本賞を受賞した。
授賞式の当日、プレゼンターの女優デボラ・カーがロバート・リッチの名前を
発表したが受賞者は現れず、マスコミも取材したがその正体は不明であった。
「ローマの休日」は1953年の作品であったが、トランボンは監督である
ウイリアム・ワイラーに累が及ぶのを恐れて、長い間、自身が書いた事実
を隠していた。
非米活動委員会に協力的だった、当時の映画俳優組合の委員長であった
ロナルド・レーガンや、圧力に屈して仲間を売って転向したエリア・カザン監督
などと違って、ワイラー監督は、監督のジョン・ヒューストンや女優
キャサリン・ヘップバーンと共に“ハリウッド・テン”を支援した一人で
あったからである。
その後、トランボンは叙々にハリウッドに復帰し、実名で「スパルタカス」(60年)
「栄光への脱出」(60年)「パピヨン」(73年)等の大作を手がけ、1970年には自分
の原作を自ら監督した作品「ジョニーは戦場に行った」を撮った。トランボンは
2度オスカーを受賞(「黒い牡牛」「ローマの休日」)したが、いずれも実名で発表
した作品ではなかったのである。
2017年01月08日
アメリカこぼれ話 46 ローマの休日と赤狩り
posted by JN01 at 17:34| 連載:アメリカこぼれ話