2015年12月27日

12/27 アメリカこぼれ話40 真ん中にない公園=セントラル・パーク

アメリカこぼれ話 40
JN協会理事 北村 嵩 (元 JTB取締役)

「真ん中にない公園=セントラル・パーク」

19世紀後半は、アメリカで産業化、都市化が急速に進行し、
多くの移民が職を求めて都市に集中し、スラムを形成して
いった。ニューヨークはその代表的な都市であり、マンハッ
タン島の南から北に向かって急激に膨張していった。
人口が急増して都市化が進む中、有識者の間でロンドンの
ハイドパークやパリのブローニュの森のような、人々が安
らげる都市公園を作る呼びかけが行われた。

この当時、住民の大部分は現在のロアーマンハッタンに
住んでおり、公園と呼べるような場所はほとんどなかった。
1853年、州議会がマンハッタンの中心に公園を建設する権限
を市政府に与え、現在の場所を公園予定地と定め、公園の設
計案を公募。建設コンペを実施した結果、フレデリック・
ロー・オムステッドとカルヴァート・ヴォーの「芝原計画」が
採用される。岩と湿地帯の大改造が1858年に開始され、1876年
に完成した。建設当時、この辺りは住宅地から遠く、アイルラ
ンド系や黒人などの不法居住者が小屋を建て住み着いていた。
彼らは豚などの家畜を飼い、密造酒を作っていた。これらの
約千数百名は立ち退きに激しくい抵抗したが、それも敵わず
退去させられた。公園の整備は多くの移民の雇用対策の側面
も持っていたが、この当時は「金ぴかの時代」といわれ、
政治と経済界が癒着し汚職と腐敗が横行しており、この公園
計画も政治的に利用された。

理想主義的なオムステッドは、都市の公園は重要な教育現場
の一つ、と考えており、公園の秩序を守るために細かい規則
を作り、景観維持に努めようとした。この広大な土地の利便
性や将来性を見込んで、経済的、実利的な思惑の商業主義が
押し寄せ、サーカス、遊園地、売店などで儲けようとする動
きが絶えなかった。オムステッドは公園本来の目的に添わな
いとして拒絶したが、腐敗した政治家の圧力で何度か解雇さ
れた。

完成した“セントラル・パーク”は都心から遠く離れたアッ
プタウンに位置しており、交通が不便で費用も高く、その緑
の恩恵を一番必要としていた住民には手の届かない場所だった。
一方、中産階級や富裕層にとっては物珍しい場所となり、馬車
で見物に訪れ、流行していた自転車を乗り回し、冬にはスケー
トを楽しんだという。人里から遠い場所に出来た公園の名前が
“セントラル・パーク”であったため、一部では皮肉や揶揄の
対象になった。

posted by JN01 at 01:06| 連載:アメリカこぼれ話